感想文が書けない

本を読んで何かしら感想を書こうと思っていたのだけど元々苦手だったしメモの罫線を見つめるばかりでなかなかさらっとは言葉が浮かんでこない。まあこんなもんだよなあと思いながら本を閉じてどんな内容だったか思い出してみても雰囲気だけしか思い出せなくて、どうしようかなぁとしばらく思い出そうとしていたんだけど、そういえばなんでかわからないけど好きだったところあったなあと思っているところで、その部分の文字が浮かんできた。はっきりとはしないけど自分で言葉を補うことができるくらいには思い出せた。普通のことかもしれないがそのとき僕は、こんなことができるのかと思った。

覗いた顕微鏡のピントが合うようだった。感想を書くことに何が関係あるのかはわからないけど、本を語るのが好きな人はきっとこういうことを簡単にやれるんだろうなと思ったりした。(もしそうなら物語を追うのも議論の流れを追うのも簡単そう。僕は前に書いてあったことをあまり覚えていられない)。

しかしこの、言葉が浮かんでくる感覚には覚えがあった、貧乏ゆすりのごとく考えごとをしているときの感覚に似ているのだ。僕は本の感想を書くことと考えごとに耽ることは別のことだと思っていたようだけど、もしかしたら同じようにして書くことができるのではないかと考えたくなった。

考えごとをしているとき、ボンヤリした部分を見つめて言葉が浮かぶのを待つことがある。(慣れている内容だと待つ時間はほとんど無い)。もしかすると言語化というのは常に何においてもそのようになって行われるのかもしれないと思えてきたのだ。

つまり読書の感想にしても作品に対して僕の中にボンヤリする部分が見つかれば同じ要領で書くことができるのではないか。

普段の僕なら「そのボンヤリする部分が全く無いから書けないんじゃん!」と言いそうだけれど、小論文にしても作文にしても僕は書くことが"あるかないか"でしか考えていなかった、"最初から現実に文字として書けることがあるか"ということに縛られていたということはないだろうか。「頭の中に言葉がない」という思いばかりに引き摺られて、ボンヤリする部分を見つめようとも見つけようともしていなかったのではないか。

そうなってしまったのはきっとこんな理由だ。考えごとをするとき、ボンヤリする部分を見つめると同時に僕がしていることがある、(当然のことだけれど)対象を見つめることだ。対象を見つめることがボンヤリする部分を引き出す(引き出されないことはおそらくない)。僕は対象からボンヤリする部分への注意の移動を本に対して行うことができなかったのだろう。本を読むとは"本に注意を向ける"ことで、ボンヤリする部分を見つめることは"自分へと注意を向ける"ことだから、それらは全く別のものだとして拒否していたのかもしれない。

こんなこと考えずとも簡単に文章を書くことのできる人に言わせれば「ただの馬鹿」かもしれないし、こんなことは全くの的はずれで何ら有効な意味をもたない現実逃避なのかもしれない。しかしそれはそれとして、次に僕がやることは、好きな一文(あるいは嫌いな一文)だけでもいいから、それを前にして待つことである。

そうして出てきた言葉をどうするかは、1度それをしてみてから考えることにしよう。