2017年 2月26日(日曜日)

12時50分。いつのまにこんな時間だ。相変わらず僕はSNSに向いてないなと思う。ネットを介さない社会的活動がそれよりマトモにできるというわけでもないけれど。Twitterの使い方を少し変えたい。

本を少し読んだ。日本語が分からず、調べてもよく分からなかったので知恵袋に質問を投稿しておいた。

気がつけば病院へ行く時間で、マックに立ち寄る暇はなかった。いつもなら遅刻してでもマックへ行きハンバーガーやポテトを勢いよく詰め込んでいるだろうけれど、今日のところは理性が勝った。帰りに大戸屋で思う存分ご飯を食べようと自分に言い聞かせた。おじさんは病院が終わった後にいつもご飯を食べさせてくれる。向こうに付き合わされてる側面もあるので恩を感じることはないが、ご飯を奢ってもらえるのは有り難い限りだ。たぶん今日は大戸屋だろう。

 

2017年 2月14日(火曜日)

お昼の12時くらいに起きた。眠りが浅かった。運動したのにな。スマホの見過ぎだろうか。

勢いで買った『ごろっとグラノーラ--いちごと小豆の宇治抹茶』を食べて、コーヒーを飲み、タバコを吸って、Twitterを見ながら「どうして僕はこんなにケータイばかり見てるんだろう、こんなんでいいのかな」と心の中で、さながら棒読みのごとくいいかげんに呟いた。

カーテンを開けて窓を開けた。布団を畳んだ。冷たい水で顔を洗った。歯磨きをした。食器を洗った。こういうところからだ。こういうところからなんだ。たぶん。 

LINEを返した。久しぶりに服を買いに行けば?と言われた。僕もそう思う。

英会話の復習をしようと思ったけど、どうしたらいいのかわからなかった。とりあえず、思い出せる会話をノートにまとめた。メモ書きや調べたことも例文をつけて書き出した。あとは音読だろうか。CDと教材もあるのでディクテーションもしたい。できることをちょっとでもやろうという気持ちだ。精神的に神経を摩耗させないように、やりすぎないことも大事だと思う。

昨日とほぼ同じ夜ご飯を作った。今日は卵はご飯にかけて納豆と一緒に食べた。

 

2017年 2月13日

2時に寝て8時に起きた。

いつもなら起きた後もだらだらしていて、今日も布団の中でごろごろと時間を過ごしたかったけど、わりとすぐに起き上がれてしまった。

布団の上で胡座をかき、スマホからTwitterを覗き、僕が寝たであろう時間を確認した。

枕元に置いてあったコーラを一口飲んで冷蔵庫に戻した。

顔を洗おうと洗面台へ向かうも、トイレだけ済まして部屋に戻る。

父親のテキパキしたロボットのような生活を思い返しながら、久しぶりに布団をたたんだ。

それからまた洗面台へと足を運んで、冷たい水で手を洗い、顔を洗った。

最近、人に言われてリップクリームを塗るようになった。唇がカサカサにならないし、続けているうちに唇の持久力も上がっている気がする。

寝間着の上にウインドブレーカーを羽織って買い物に行った。冷蔵庫に何もなかったから。

今日買ったのは、

牛乳、納豆、豆腐、玉ねぎ、じゃがいも、ほうれん草、ピーマン、椎茸、鶏のムネ肉

朝ごはんを作ろうかと思ったけど、めんどくさくて帰ってからはシリアルを食べた。

今日は何をしよう。

 

Twitterで思うことをいくつかツイートした。

眠いからタバコを吸って、窓を開けて、腕立て伏せをした。効果があったかはよくわからない。

食器など洗い物をして少し部屋の掃除をした。全然片付いてないけど、少しずつやっていきたい。今すぐ全部やる必要はないし、できるときに、やりたいことの合間にやればいいんだ。

お昼ご飯を作った

椎茸と豆腐のみそ汁、じゃがいもと玉ねぎとピーマンと鶏のムネ肉の炒めもの

特別美味しくはないけど、いつもどおりにはおいしくたべれた。コーヒーを飲んだ。使ったものを洗うのは帰ってきてからにした。

約1時間半ネイティヴアメリカンに英会話を習ってきた。帰ったら復習した方がいいよなと思った。こういった英会話の学習は復習しないと何も学べない気がした。春休み何を勉強するか、ある程度先に決めておこう。

 外に出たついでに何か買い物をしようと思ったのだけど、何を買おうとしたか忘れてしまった。思い出せるものだけでも買って帰ろうか。

 卵、コーヒーパック、紙紐、洗濯洗剤

やたら貯金が低くなっていたので記帳してみた。2月頭の出費が多い。何に使ったのか忘れてしまった。僕も節約のために家計簿をつけたほうがいいのだろうか。

そう思ってるそばから喫茶店に入り、たいして好きでもないカフェラテとクレームブリュレを食べ、ダラダラしてしまった。こういうのだって良くないんだと自己嫌悪にふけりながらタバコを吸っていた。

買い物を済ませたところで電話がかかってきた。いつもの勧誘だった。自分が無知であるがゆえに、話を聞かないわけにはいかないと思ってしまう。興味のないことだってわかってるのに、詳しく質問をして乗り気であるかのように見せてしまう。春休みは存外に忙しいこともあって、止む無く断るという形をとることができたから助かった。いったい僕は何をしているんだろうか。

そうこうしてるうちに帰宅すれば19時を過ぎていた。今日、残りの時間でやっておきたいことはなんだろう。

軽い運動、シャワー、食事、歯磨き、英会話の復習、LINEの返信、近い未来の行動計画を立てること

体操・反復横跳び・ジョギング・筋トレ・ストレッチを1時間弱くらいやった。

ほうれん草(葉)と生椎茸と豆腐のみそ汁、鶏胸肉と卵とほうれん草(茎)とじゃがいもと玉ねぎとニンニクの炒めもの、納豆

みそ汁と炒めものに賞味期限間近のローレルを一枚使ってみた。昼といろいろ変えてしまった(ほうれん草とかニンニク)のでローレルに何の意味があるのか実感はできなかった。お米を一合食べるのは流石に多過ぎた。痩せたい。

歯磨きをしてから、溜めていた紙ゴミを紙紐で縛ってフライングで出してきた。

机周りが汚くて勉強ができなかったので、ひとまず机周りを片付けて英語の勉強は明日やることにした。

LINEも明日返そう。

今日はたくさん活動した。

もう2時だ。

2017年 2月12日

何をするにしても「必要最低限に行うべき行為の基準」に考えいたらない。いきなり優先順位をつけるのは難しいから、まずは必要最低限という目安を思い出して意識するようにしたい。

 

夢中になれないときは、頭がボーッとしてる。最善の努力をする際には、それに夢中になっているはずなのかもしれない。

 

僕は日常をやっていきたいと思う。さっき洗濯をしてゴミを出した。できたら洗い物は明日やろう。できたらちゃんと自分の予定を把握しよう。ストイックにならなくてもいいから、少しずつ日常をやっていきたい。

感想文が書けない

本を読んで何かしら感想を書こうと思っていたのだけど元々苦手だったしメモの罫線を見つめるばかりでなかなかさらっとは言葉が浮かんでこない。まあこんなもんだよなあと思いながら本を閉じてどんな内容だったか思い出してみても雰囲気だけしか思い出せなくて、どうしようかなぁとしばらく思い出そうとしていたんだけど、そういえばなんでかわからないけど好きだったところあったなあと思っているところで、その部分の文字が浮かんできた。はっきりとはしないけど自分で言葉を補うことができるくらいには思い出せた。普通のことかもしれないがそのとき僕は、こんなことができるのかと思った。

覗いた顕微鏡のピントが合うようだった。感想を書くことに何が関係あるのかはわからないけど、本を語るのが好きな人はきっとこういうことを簡単にやれるんだろうなと思ったりした。(もしそうなら物語を追うのも議論の流れを追うのも簡単そう。僕は前に書いてあったことをあまり覚えていられない)。

しかしこの、言葉が浮かんでくる感覚には覚えがあった、貧乏ゆすりのごとく考えごとをしているときの感覚に似ているのだ。僕は本の感想を書くことと考えごとに耽ることは別のことだと思っていたようだけど、もしかしたら同じようにして書くことができるのではないかと考えたくなった。

考えごとをしているとき、ボンヤリした部分を見つめて言葉が浮かぶのを待つことがある。(慣れている内容だと待つ時間はほとんど無い)。もしかすると言語化というのは常に何においてもそのようになって行われるのかもしれないと思えてきたのだ。

つまり読書の感想にしても作品に対して僕の中にボンヤリする部分が見つかれば同じ要領で書くことができるのではないか。

普段の僕なら「そのボンヤリする部分が全く無いから書けないんじゃん!」と言いそうだけれど、小論文にしても作文にしても僕は書くことが"あるかないか"でしか考えていなかった、"最初から現実に文字として書けることがあるか"ということに縛られていたということはないだろうか。「頭の中に言葉がない」という思いばかりに引き摺られて、ボンヤリする部分を見つめようとも見つけようともしていなかったのではないか。

そうなってしまったのはきっとこんな理由だ。考えごとをするとき、ボンヤリする部分を見つめると同時に僕がしていることがある、(当然のことだけれど)対象を見つめることだ。対象を見つめることがボンヤリする部分を引き出す(引き出されないことはおそらくない)。僕は対象からボンヤリする部分への注意の移動を本に対して行うことができなかったのだろう。本を読むとは"本に注意を向ける"ことで、ボンヤリする部分を見つめることは"自分へと注意を向ける"ことだから、それらは全く別のものだとして拒否していたのかもしれない。

こんなこと考えずとも簡単に文章を書くことのできる人に言わせれば「ただの馬鹿」かもしれないし、こんなことは全くの的はずれで何ら有効な意味をもたない現実逃避なのかもしれない。しかしそれはそれとして、次に僕がやることは、好きな一文(あるいは嫌いな一文)だけでもいいから、それを前にして待つことである。

そうして出てきた言葉をどうするかは、1度それをしてみてから考えることにしよう。